京都案内 代々京都で生まれ育った私が,京都の色々をご案内します。
観光穴場, 京の町屋の日常など思い付くまま発信します。
1 不思議案内
新京極の不思議
まず,私の生まれ育った地元のご案内です。
寺町通は皆さんのご存知の,平安京の条里制の東のはずれにあり京極(京の極)と呼ばれていました
江戸時代までは寺町の東は寺院が、建ち並び,寺院の東は賀茂川の河原でした。
実際、明治時代の末まで,寺町通の東側は寺院の塀があり,小さな堀があったそうです。
千年余りも続いた古都 京都も政治の中心が東京へ移り,幕末の戦乱で丸焼け(禁門の変)になった中心街は復興めどもなく
沈みきっていました。その京都の町に新風を吹き込み, 復興への足がかりを与えようと二代目の京都府知事の槙村正直氏は,寺町の
三条と四条間の寺院の境内地を没収、誓願寺,誠心院,西光寺,円福寺,安養寺,歓喜光寺,金蓮寺などの 門と本堂の間の高塀を
取り南北に道を作り,これを新京極と名づけました。
たらたら坂 | 三条から新京極へ入る所が坂になっていますがすぐ西の寺町にはこんな坂はありません。 寺院の境内の中に道を作ったからでしょうか。 |
軒端の梅 | 六角下がる誠心院に和泉式部の墓という宝筺印塔があり,その脇に梅の古木がありました。 この梅は和泉式部が植えた梅で花弁外側が紅色,中は白く紅点があり花形は小さく花心が凹み小川梅といいましたが, 今は枯れてありません。謡曲 「東北」 にもでてきます。 |
さかれんげ (安養寺) | 安養寺の本尊 阿弥陀如来は春日明神の作といわれ,阿弥陀様の台座はすべて蓮華が ついていますがこのご本尊の台座の蓮華は逆さについている珍しい物です。 逆さの八蓮華は五障三従の型として,これを念ずる女性は,極楽往生ができると古くから 信仰されています。 |
染殿地蔵は裸仏 (染殿院) | 新京極四条の派出所の裏の,本尊は裸の地蔵尊で日本でも十体ほどしかない珍しい物ですが 秘仏で拝めません。この寺院は又の名を十住心院といい,弘法大師が十住心論を著わしたところとも言われています。 |
迷子の 道しるべ | 誓願寺正門左手にある石標で,正面に「迷子道しるべ」 右に「教ゆる方」 左に「尋ねる方」 と彫ってあり迷子や落し物をした時 寺は紙に書いて左に貼り付け,拾った人は教える方に張ったそうです。 |
知恩院の不思議(我々京都では ちおいんさん と呼んでいます)
知恩院は浄土宗の総本山で華頂山大谷寺知恩教院と号し、法然上人が始めて浄土宗を布教された所で、又上人入寂の地でもあります。
法然上人は始め叡山で研学し、ついに浄土専修念仏宗を創立するにおよんで承安年中(1171〜4年)青蓮院の慈鎮和尚の庇護を得て
草庵をむすびました。法然上人は建暦2年(1212年)80歳で入寂しました。死後遺弟、源智上人は文暦元年(1234年)四条天皇の勅
によって旧地に伽藍を再建して大谷といいました。
忘れ傘 | 左 甚五郎が御影堂を建築し終えた時、東南の庇に置き忘れたといわれています。 |
真向の猫 | 大方丈の裏側廊下に有る杉戸にかかれた絵で正面から見ても、左右どちらから見てもま真向き(真正面)に 見える山猫で、三方にらみ猫とも言われています。 |
抜け雀 | 大方丈 菊の間の襖絵で、菊の絵の上に数羽の雀が描かれていましたが、あまりに良く描けていたので、 飛んで逃げたといわれています。 |
鶯張り の廊下 | 御影堂のうちから集会堂を経て、大方丈に至る約550mの廊下はどこを歩いても うぐいすの 鳴き声に似た音がします。これは貴人用の座敷であるので 忍び除けともいわれ、間者、忍者、暗殺者を 予知するためとも言われ二条城と共に珍しい造作の廊下です。 |
大杓子 | 大方丈への渡りの屋根裏に長さ2m50cmの板杓子がありますがあまり大きいところから、 関が原の合戦で三好清海入道がこれを片手に持ってご飯を掬い兵士に振舞ったと伝えられて いますが、杓子はご飯を ”救う” ので ”仏の救い”あらわしたもにとされています。 |
瓜生石 (かしょう せき) | 知恩院の黒門前の道路の中央に石棚を設けその中にこの石があります。昔この石の下から一夜にして胡瓜のつるが 生え、花が咲いて瓜が実ったことがあると伝えられ、その瓜に「感神院」 (牛頭天皇 ゴズテンノウ)と記されていましたので、 青蓮院の鎮守である粟田天王神へ奉納されました。 今粟田祭に出る瓜鉾という剣鉾(阿古陀鉾ともいわれています。)はこの石から生れた瓜を象ると言われています.。 又一説にはこの石は地軸から生えているとも言われ、節分の日には 豆を自分の数え年より 一粒多く供える風習があります。 |
棺の中 の木像 | 五味金右衛門は山門を建てるに当り、自分の思い通りの計画で予算以上の用材を使って建てたためその申し訳に自殺 しました。この五味金右衛門夫婦自作の木像が棺箱に納められ山門楼上にあります。 またこの五味金右エ門は二条門を造った時にも用材集めの役をしていました。 |
稲荷大社の不思議
我が国に無数にある稲荷神社の総社で広く信仰を集めています。旧官幣大社で俗に「伏見稲荷」と呼ばれています。
当社は秦氏が祀った神社で倉稲魂神を主神とされあがめられていました。
稲荷は伊奈利とも記しイナリとはイネナリ(稲生、稲成、飯成)の約語で、ご蔡神が農耕神である事をあらわしています。
又その神像が稲を荷っているところから稲荷という字がもちいられました。
もとの鎮座地は稲荷山の山頂三ヶ峰にありまして上、中、下の三社に分かれていましたが永享10年(1438年)現在の山麓の地
に移したと伝えられています。 現在の建物は応仁の乱後の再建で本殿などが建ち並び、お山には無数の赤い鳥居が奉納されています。
御山の土 (おやま のつち) | 毎年2月の初午の日に稲荷山の土を一掴み持ち帰って自分の田畑に入れておくと、米が豊作になると信じられています。 又門前の土産物店で売られている土製の伏見人形もやはり稲荷山の土で作られています。 お山の土で作られた 柚、デンボなどを土の代わりに田畑に入れ、豊作を祈る慣わしもあります。 |
御塚の多いこと | 御山には何々大明神と記した石碑が無数にあり、御塚とよびこの塚にアラレを供え熱心に巡拝する人を見受けます。 これらの御塚はいずれも明治以後に造られたものだそうで、そこには自然物をそのまま対象とした信仰の名残が見られます。 |
おもかる石の灯篭 | 命婦社の傍らにある石灯籠の宝珠を ”おもかる石” といってこの石を持ち上げて軽ければ願い事が叶い、 重たければ叶わないと、いわれ一種の神占石です。だいぶ重たいのでドスンと降ろしてしまいますので笠の上のほうは、 石粉で白くなっています。 |
験の杉(しるしのすぎ) | 初午の日に社頭において杉の小枝に御幣をつけて、一般参拝者に授与されますが、杉が選ばれるのは稲穂によく似て、 しかも早く成長するといわれているからで、神の精気を象徴する霊木として尊ばれたものといわれています。 また杉を我が家へ持ち帰るのは杉を神霊の棲家と見立て、神の分霊を勧請することであります。 |
八嶋殿には 社殿がない | 稲荷本社から八島ヶ池に至る参道の東側にあります。四大神という地主神を祀るといわれ、元は山上の荒神塚 にありましたが、中世にここに移りましたが今は社殿はなく山林それ自身が御神体とされています。 |
藤森御輿 饗応 | 大社の境内に昔 藤森神社があったのですが、稲荷大社が山麓に降りられ藤森社は現地に移りました。 それで今でも5月5日の藤森社の当日神輿が旧鎮座地の稲荷大社前に安置され、神輿担ぎの人達が「土地かえしゃ 土地かえしゃ」と呼びます。 稲荷社の人達は 「いまお留守 いまお留守」 言い返す慣わしがあるそうです。 |
奴禰鳥居 (ヌメ トリイ) | 二の峰より、三の峰にいてるあいだの荷田社前の鳥居です。島木と貫(額を掲げてある処)との間に斜めに一対の 「亥の子(イノコ)ざす」のようなものがあります。このヌメ鳥居は珍しくこれと同型の鳥居は新京極錦の「錦天満宮」にもあります。 |
お産場の ろうそく | 八島ヶ池の北にお産場稲荷があり、昔から安産の神として有名ですが稲荷大社のお使いの狐がよく ここでお産をしたと いわれています。狐のお産はすこぶる軽く社前の燃え残りのローソクを持ち帰るとお産が軽いと言われています。 |
2002年8月1日
19:22
比叡山の不思議
比叡山は略して”叡山”とも言われ京都の東北にあり、始めは日枝と書き大山咋神を祀る霊山として
神聖視されていましたが、伝教大師 最澄が王城鎮護教を伝えたことから、天台山とも称されています。
一つ目小僧 (根本中堂近く) | 東塔の総持坊玄関に、一つ目、一本足の慈忍和尚の化身といわれる画像があります。この和尚は 「仏法が廃れ 僧侶が本分を忘れることがあれば仏天、祖師に申し訳ない、死んでも尚 十分に見守らねばならない」と決心して 亡くなりました。その後悪僧や、偽坊主がはびこると必ず、一つ目の妖怪が現われ”山僧よ、怠けるなかれ、怠け者は 退散せよ”と日夜悪僧達に取り付いて、遂には下山させたと言われています。 |
ナスビ婆(延暦寺駐車場付近) | 天海大僧正の住んでいた、南光坊にナスビ色の顔をした妖怪婆が現われ、小僧を驚かせ呪文を唱えて消えたと 言われています。この妖怪は800年程前、上臈であったとき殺生をした報いから魔界に墜ちたが仏菩薩の加護により、 身は魔界にあっても、心は比叡山に住む事を許された者で、信長の比叡山の焼き討ちの時、鐘を鳴らして急を 告げたのは、このナスビ婆であったと伝えられています。 |
麗人の水垢離 (五智院ー延暦寺会館下) | 五智院の僧が真夜中、仏間に入ると古い位牌が無気味に動き水音が聞こえてくる。谷を降りると霊水の湧く泉で 水垢離をする、上半身裸体の美女が見えた。翌日又好奇心にかられ覗き見したところ、その僧に件の美女が恨めしく つぶやいた。 「その位牌は私だ。魂をこの霊山に留め修行すれば幸多き来世が約束されると教えられ行を積んでいる。 僧よ好奇心のため神秘や尊厳を傷つけるな。」と諭したと言われています。 |
六道踊り (横川中堂) | その昔、横川中堂では毎年お盆法要が盛大に行われ、盛りだくさんの茶菓、香華が供えられ、そしてその夜中 本堂から庭に出られた聖観世音が印を結ぶと 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天人 の亡者達が集まり盆行事が始まり 地獄衆 餓鬼 修羅 人間の余興に続いて天人の延命の舞の後、観音様の講評が終わる頃世が白み、何事もなかった様 にいつもの朝事が始められました。 |
一文字 たぬき |
西塔のにない堂に自分の偏屈な性格をを改めようと、たぬきの彫刻彫り始めた僧がいました。彫り始めて10日目の 夜疲れて廊下にたたずんでいると、突然眉毛が白く一文字に引かれている 大だぬきが現われ「我は一文字だぬきだ。 遊び彫刻は仏道から逸する恐れあり、1千体悲願を立てよ、そうすれば汝を助けよう」という声が聞こえた。 それ以来1千体発願したと言われています。 |
船坂に モヤ船 |
比叡山は昔女人禁制の霊峰であったため、三僧を恋人に持った女性や 息子を持った母親など叡山に思いを残し ながらこの世を去った女人もおおく、 これらの亡者が立ち込めるモヤを利用して参詣のため、 船で東塔の船坂にやって きて、か弱い声で念仏を唱えていました。これを見た山法師が跡をつけたところ、振り返った、亡者と目が合った途端、 失神して亡くなった伝説もあります。 |
蛇が池の 妖怪 | 西塔の赤池(蛇が池、横川の竜ヶ池とも言う)に大蛇の妖怪が住んでいました。幾多の修行僧が退治しようと しましたが 荒れ狂うばかりで 思う様になりません。 このとき一人の高僧が静かに呪文を唱え、妖怪にその神通力を 見せて欲しいと切望しました。大蛇はたちまち、雷鳴を伴って大きくなり釈迦堂を七巻半 まきました。次に小さくなって 手のひらに乗るほどの 小蛇になり、このとき彼の高僧はこれを握り締め壷に封じ込めて退治したと伝えられています。 |
2002年8月7日
清水寺の不思議(東山区清水1丁目)
清水寺は音羽山と号し法相宗の寺で奈良の興福寺に属します。創建は桓武天皇の建暦24年(805年)大納言 坂上田村麻呂が
この地に私寺を建てて清水寺と号しtのが起こりだといわれています。平安末期に再々の兵火の災厄をこうむりましたが、中世以後は
西国三十三ヶ所観音の十六番札所となりましてその霊験がたたえられ今にいたっても多くの参詣者を集めております。
現在の建物は寛永前後の再建で本堂を始め、国宝、 重要文化財の建造物を多く有し、又東山の中腹に位置し、音羽山を
背景とし絶景の場所にあり、春は桜、秋はもみじと四季の景観は素晴らしく京洛屈指の名刹です。
清水寺の裏山といっていい将軍塚は坂上田村麻呂の墓と聞いています。 2002年8月30日
景清爪彫の 観音 |
隋求堂の手前右手にあります。石灯籠の火袋内に納められた線彫りの小さな観音像で、 平景清は清水の観世音を 信仰し、牢谷の獄にいれられているに間に爪で石の上に観音像を彫り、清水寺に奉納したといわれています。 |
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景清の足形石 | 従来は地主神社の本殿前にありましたが、朝倉堂の前に移されました。弁慶の足形石ともいわれていますが、景清が
大男で足形も1尺7寸(51Cm)もあったといったもので、事実は仏足石でその足裏の魚紋いや雲形を削り取ったものである といわれています。 |
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轟橋の門(中門)には扉がない | 本堂のの西にある門で寛永10年(1633年)の建立です。この門は八脚門として極めて珍しい構造で三棟造です。 三門一戸の八脚門で屋根は切妻造、本瓦葺です。 また普通、門には扉がありますがこの門には扉がなく 珍しがられています。 |
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轟橋と 歯痛の人 | 歯痛の人がこの橋を渡ると治らない.。 中門(轟門)にかかる橋を轟橋といい、この端は周囲を石で作り橋板は木材で出来ており、周囲は歯を木板は舌と見立て、 それで歯痛の人はこの橋を渡らないといわれていました.。 |
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梟の手水鉢 | この手洗い水は梟の水といわれています..水盤の台石の四隅梟のような浮き彫りがあり、水盤の中の清泉で 口をゆすぐと、歯痛、頭痛が治るといわれていました.。 |
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カンカン貫 | 轟門の左の端の長押の西方の柱に凹があり、此処を叩き、東端の木に耳を当てていると聞こえます。 まるで電話の様だと言われています. |
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弁慶の鉄の 鉄の杖と下駄 |
弁慶が使った、杖と下駄といわれ大変重たい物です。本当は眼病の人が清水へ日参して、眼病平癒を祈り 全快したので、お礼にこの杖と下駄を奉納したと言われています。. |
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車宿 (馬駐) (うまとどめ) |
室町時代の建立で重要文化財に指定されています。仁王川の北側にあり9mと3,6mの遺構です。 柱には馬をつなぐために、四葉座付のコを打ち付け、破風及び垂木の木口には金物が打ってあります.謡曲「熊野」にある 馬駐とあるのはこれで、此処で下馬し観世音に参拝したそうです。 |
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清水坂の左手を北へ降りる石段の坂道のことです。もともとは清水坂楼門の南にあった 泰産寺(子安塔)に因んで 産寧坂と呼ばれました。三年坂に続いて北側に二年坂があり、京情緒にあふれたところの一つです. |
2002年9月17日
2 幕末の京都案内
新撰組だけでなく、幕末動乱の京都の町はどうであったのか、どんな人が京都を舞台に活動したのか、ゆかりの地を京都の町の中からさぐってみます。
居とは幾度の動乱の中、不死鳥のように蘇ってきました.京都に生まれ育った京都人はそのような京都を誇りに思っています.
(時代が移り変わってきていますので建物など移転している場合もあります.このようなところにも幕末に京都の歴史の一部があったとご理解ください.)
北区
神 光 院 | 西賀茂神光町 | 山門脇に太田垣蓮月尼隠棲の茶室や蓮月尼に育てられた富岡鉄斎撰の石碑がある |
上 善 寺 | 鞍馬口通り 寺町東入る | 元治元年(1864)7月禁門の変に鷹司邸にこもって敗れ、自刃した松下村塾の俊英、入江九一他七士の首を葬った所 |
等 持 院 | 等持院 北町 | 尊氏を始め、足利市歴代将軍の木像がある.尊王論の遊説の帰り道、尊氏の墓を認め高山彦九郎はその墓を鞭打った。 文久三年(1863)幕府のどきもを抜く為、三条大橋にて 木像梟首事件が起こった。 |